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Q 山守とはどういうお仕事ですか。
 ひと言で表すなら、山の管理をする仕事です。吉野地域の山の持ち主は、吉野に住んでいない人が多く、山の手入れの作業を山守に任せたんですね。山守は山の仕事をする人たちのリーダーとして、スギやヒノキを育て切り出す訳です。
 育てて切るとひと言でいっても、山づくりというのは一年や二年でできるものではありません。木が立派に育ち、材になるまでには長い年月と、数えきれない手仕事が必要です。
 手仕事でいえば、木の成長が草やツル植物に妨げられないようにする下草刈りやツル切り、雪や風の影響で傾いた木を元の姿に戻す木起し、均一した緻密な年輪と無節を生み出すための枝打ちなど、人工林として時間的な価値を生み出すために様々な仕事があるんですね。

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Q 中井さんの代だけでは完結できない仕事ですね。
 はい、そうなんです。私は七代目になるんですが、父や祖父が世話をした木を切り出しているという訳です。先ほどお話した枝打ち作業ひとつをとってみても、枝打ちをしている時にその結果は外見でしか確認することはできません。でも、何十年か先にその木を切った時に、はじめてその成果が評価されるんです。
 私も木を切り出したときに、その芸術ともいえる年輪を見て「ああ、素晴らしい仕事をしているなあ」と思う場面が数多くあります。見知らぬ過去の人の手仕事を自分の目で確認し、今度は自分の手仕事をまだ見ぬ未来の人が確認する。そう考えると壮大なスケールの仕事だと重みを感じると同時に、「後世に恥じない仕事をしよう」と、背筋が伸びる思いがします。
 
Q 子どもの頃から山守になろうと思われたのですか。
 そうですね、自然とそう思っていました。大学を出て五年半はサラリーマンを経験し、二十八歳の時に父の跡を継ぎました。当時、バブルが崩壊し、世間の景気は下降していました。林業も大変だろうと心配していたんですが、サラリーマンの経験からすれば、体力的な辛さはありますが、何と恵まれた業界なんだろうというのが、最初の感想でした。でも、不安要素もありました。それは林業従事者の高齢化です。技術や知識を継承し、林業従事者を育成しないと、吉野林業は

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衰退すると思ったんです。
 なんとか解決しないといけないと思っていた矢先の平成十年九月、台風による倒木被害に遭いました。これまで何代も継承してきた山が荒れ果ててしまい、木々は商品価値を失ってしまいました。吉野林業は地域の核です。この被害をきっかけに地域の活力も少しずつ低下していきました。
 
Q 吉野林業の危機ですね。
 うーん、そうですね。それまでは吉野杉というブランドに頼っているようなところがあって、この被害をきっかけにひとつの転機というか、吉野林業とは何ぞや、という原点を見つめ直すきっかけになったような部分があります。吉野林業は本来、日本の林業をけん引していく役目があるのに、どこかが違っていた。
 私自身も最初は、木を立派に育てて市場に出し、高く売れればよい、というような考えが先に立って、その木材がその先、どのように流通し、どうやって使われているかという部分まではそれほど考えていなかったんです。
 でも、原木丸太の価格が低迷を続ける中で、このままじゃあ、循環型の吉野林業がいつかは成り立たなくなると思い、吉野材の良さを直接伝える仕組みを考え始めたんです。
 
Q どのように伝えられましたか。
 吉野材の良さを伝えるために、インテリア商品を開発し、東京のギフトショーに出展しました。展示会という場で、そ

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れまでは顔を合わせることのなかったお客さんや、他の出展者の人との出会いがあり、これまでとは違う世界が開けたように感じました。人や他地域との繋がりも生まれ、吉野材の歴史などを直にお伝えする機会も増えました。
 実際に吉野の山を歩いてもらおうと、「吉野山守ツアー」というのも始めたんです。林業を点ではなく、雄大な歴史の流れと人の手が生み出す宝物だとお伝えできるよう、心がけています。
 山の仕事は技術だけでなく、感謝の念も大切です。過去から現在、そして未来と、一本の木に宿る三世代の思い、山での安全な仕事への願い。実際に山へご案内すると、そういう目には見えない豊かさのようなものを感じ取ってもらうことが出来るように思います。
 山づくりは私の代だけで出来ることではありませんし、私ひとりの力で出来ることでもありません。これからも山を育てる育林と、山の豊かさを伝える発信を積み重ね、私が先代から受け継いだように、次の世代へと繋げていきたいと考えています。

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Q 山守とはどういうお仕事ですか。

 ひと言で表すなら、山の管理をする仕事です。吉野地域の山の持ち主は、吉野に住んでいない人が多く、山の手入れの作業を山守に任せたんですね。山守は山の仕事をする人たちのリーダーとして、スギやヒノキを育て切り出す訳です。

 育てて切るとひと言でいっても、山づくりというのは一年や二年でできるものではありません。木が立派に育ち、材になるまでには長い年月と、数えきれない手仕事が必要です。

 手仕事でいえば、木の成長が草やツル植物に妨げられないようにする下草刈りやツル切り、雪や風の影響で傾いた木を元の姿に戻す木起し、均一した緻密な年輪と無節を生み出すための枝打ちなど、人工林として時間的な価値を生み出すために様々な仕事があるんですね。

 

Q 中井さんの代だけでは完結できない仕事ですね。

 はい、そうなんです。私は七代目になるんですが、父や祖父が世話をした木を切り出しているという訳です。先ほどお話した枝打ち作業ひとつをとってみても、枝打ちをしている時にその結果は外見でしか確認することはできません。でも、何十年か先にその木を切った時に、はじめてその成果が評価されるんです。

 私も木を切り出したときに、その芸術ともいえる年輪を見て「ああ、素晴らしい仕事をしているなあ」と思う場面が数多くあります。見知らぬ過去の人の手仕事を自分の目で確認し、今度は自分の手仕事をまだ見ぬ未来の人が確認する。そう考えると壮大なスケールの仕事だと重みを感じると同時に、「後世に恥じない仕事をしよう」と、背筋が伸びる思いがします。

 

Q 子どもの頃から山守になろうと思われたのですか。

 そうですね、自然とそう思っていました。大学を出て五年半はサラリーマンを経験し、二十八歳の時に父の跡を継ぎました。当時、バブルが崩壊し、世間の景気は下降していました。林業も大変だろうと心配していたんですが、サラリーマンの経験からすれば、体力的な辛さはありますが、何と恵まれた業界なんだろうというのが、最初の感想でした。でも、不安要素もありました。それは林業従事者の高齢化です。技術や知識を継承し、林業従事者を育成しないと、吉野林業は衰退すると思ったんです。

 なんとか解決しないといけないと思っていた矢先の平成十年九月、台風による倒木被害に遭いました。これまで何代も継承してきた山が荒れ果ててしまい、木々は商品価値を失ってしまいました。吉野林業は地域の核です。この被害をきっかけに地域の活力も少しずつ低下していきました。

 

Q 吉野林業の危機ですね。

 うーん、そうですね。それまでは吉野杉というブランドに頼っているようなところがあって、この被害をきっかけにひとつの転機というか、吉野林業とは何ぞや、という原点を見つめ直すきっかけになったような部分があります。吉野林業は本来、日本の林業をけん引していく役目があるのに、どこかが違っていた。

 私自身も最初は、木を立派に育てて市場に出し、高く売れればよい、というような考えが先に立って、その木材がその先、どのように流通し、どうやって使われているかという部分まではそれほど考えていなかったんです。

 でも、原木丸太の価格が低迷を続ける中で、このままじゃあ、循環型の吉野林業がいつかは成り立たなくなると思い、吉野材の良さを直接伝える仕組みを考え始めたんです。

 

Q どのように伝えられましたか。

 吉野材の良さを伝えるために、インテリア商品を開発し、東京のギフトショーに出展しました。展示会という場で、それまでは顔を合わせることのなかったお客さんや、他の出展者の人との出会いがあり、これまでとは違う世界が開けたように感じました。人や他地域との繋がりも生まれ、吉野材の歴史などを直にお伝えする機会も増えました。

 実際に吉野の山を歩いてもらおうと、「吉野山守ツアー」というのも始めたんです。林業を点ではなく、雄大な歴史の流れと人の手が生み出す宝物だとお伝えできるよう、心がけています。

 山の仕事は技術だけでなく、感謝の念も大切です。過去から現在、そして未来と、一本の木に宿る三世代の思い、山での安全な仕事への願い。実際に山へご案内すると、そういう目には見えない豊かさのようなものを感じ取ってもらうことが出来るように思います。

 山づくりは私の代だけで出来ることではありませんし、私ひとりの力で出来ることでもありません。これからも山を育てる育林と、山の豊かさを伝える発信を積み重ね、私が先代から受け継いだように、次の世代へと繋げていきたいと考えています。

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