vol.24

 

蘇 慶 SU QING
鳴鳳堂国際青年映像祭実行委員長
株式会社鳴鳳堂 代表取締役
一九八九年 中国中山大学外国語学部
日本語専攻卒業。その後、公務員として沖縄に派遣され、貿易会社で通訳と営業を手がける。
一九九七年に独立、北九州にて貿易会社(日本広信株式会社)を設立。
経営するうちに、物流から人や文化の交流(観光業)へと広がり、建築業や製造業、飲食業などを手がけるようになる。
来日する外国人観光客の目線から、ニーズにあう観光スポットの創設など、観光客の受け入れ体制を整備していく中で、日本の伝統文化や、外国の文化との共通点などに深い興味を抱くようになる。
観光事業、文化交流事業をライフワークと捉え、その核となる会社として、ニ〇一三年に株式会社鳴鳳堂設立。
「本来、伝統文化は、過去をべ―スにしながら各時代のニーズに合わせて進化してきたもの。オリジナルを守りながら、新しい今の時代に合うものが創造されて初めて新しい伝統となる。」という考えのもと、阿蘇にある鳴鳳堂を中核にし、日本の伝統文化やそれに影響を与えた中国文化を紹介し、文化体験の中で人生を磨き、新しい文化や産業創造に結びつけるべく、文化を活用した交流および活性化事業に取り組んでいる。
二〇一九年には、熊本県阿蘇市にある鳴鳳堂を武家文化博物館としてオープン予定、KISS福岡和食広場は和食博物館としてリニューアルオープン予定。
平成三〇年一一月六日、福岡にて北京電影学院と株式会社鳴鳳堂共同主催による日中の若手映像制作振興と交流を目的とした「鳴鳳堂国際青年映像祭」が開催される。映像に携わる若者が、相互に切磋琢磨し、広く深く交流出来る場を提供し、且つ国際的な映像制作者の交流と成長の場として活用出来るよう企画された。世界各国の青年映像制作者とメディアが本映像祭に集結することにより、次世代の映像文化の担い手育成と業界全体のレベルアップに繋がることを目的としている。
実行委員長を務める蘇慶さんに、お話を伺った。彼がどんな思いで日本に生き、そしてなぜ映像祭開催に向かったのかが見えてきた。

日本との出会い
蘇さんは中華人民共和国広西チワン族自治区に位置する桂林市で生まれ育った。世界的な観光地である。絵のように美しい風景に恵まれた、水墨のような世界である。
そんな中国生まれ中国育ちの蘇さんと日本とのつながりはどのようにして生まれたのか。
その始まりは大学時代にあった。
「広州にある中山大学日本語学科で日本文学を専攻しました。中国の大学試験は理系と文系に分かれる。文系の中に外国語専門というのがあり、当時は海外に行きたいというのがあって…偶然は偶然です。」
そんな偶然の始まりが、その後の縁を結んだ。
「大学を卒業して2年間仕事をして、一九九一年に仕事で来日したんです。派遣されたんですね、公務員として。来日先は沖縄でした。当時はまだ台湾と直接貿易できないため、沖縄のフリーゾーンで、日中合弁の貿易会社でタックスフリーの三角貿易をすることになったんです。通訳と営業という形で2年くらい那覇におりました。」

 

任期が終わり、中国へ帰郷し、貿易関係の仕事を数年つづけた。日本の中古の電化製品やバイクなどを輸入して、中国やベトナムなどのアジアを相手に販売していた。
その後独立し、再び日本での仕事を始める。当時の中国では、海外に出て仕事をするという風潮があり、蘇さんはゆかりのある日本を選んだ。そして、それまでの能力を活かし、中古家電、バイクなどを日本から輸出する貿易業を始めた。

仕事の発展

その後建設業、農業用の肥料、健康食品、化粧品などの製造業にも進出を果たし、事業を着々と発展させていった。さらに、観光業にも着手。
「日中間のやり取りは、従来は物流でしたけど、7年前から中国の観光客が大量に日本に来るようになっていたんですね。その時日本も『観光立国』を打ち出すなど、国の政策の転換もありまして。自然な流れで観光事業に入っていって。」
観光と言えば、大体の人は免税店、旅行社、車の手配、ホテルのブッキングなどが真っ先に思いつく。もちろんそれらはとても大切なことではあるが、それだけで終わってしまっては意味がない。
「やはりそのあとには安定的な観光スポットがないといけないと思いまして。日本は外国の団体の受け入れの体制、基盤整備というかインフラがちょっと足りないんですね。例えば沢山の車が停められるレストランとか、外国人観光客に和食をちゃんと紹介できる施設とか、あるいは歴史を分かりやすく紹介している観光スポットとか」
蘇さんは建築のキャリアを活かし、国人団体客を受け入れられる施設を開発した。そこで完成したのが「KISS福岡」である。
レストラン、ショッピングコーナー、そして日本の文化を体験できる、外国人観光客向けの施設である。
二〇一六年七月二七日にオープンし、九月時点で既に来場客が五万人を超すという盛況ぶり。
バスは多い時で一六〇から一八〇台は入るという。地元の食材を使ったラーメンは一日約三〇〇〇杯売れる。
「今日本の街中のレストランは大体五〇席が大きいほうです。最大でも二〇〇席。
そういった場所に観光客がバスで一度に入っていいかどうかというと、地元への影響、衝撃があって難しい。さらにイメージが壊れるとか、色々と問題がある。みんな折角日本に来ているのに行き場がないんです。それなら、海外からの観光客が満足するような観光施設を作っていこうと。訪日客の九〇%が、日本の文化、飲食、ライフスタイル…着物や茶道、歴史など伝統文化にすごく興味を持っている。彼らに文化について説明する必要に迫られて、専門の方に教えていただいたりしながら勉強して、だんだん日本文化の中に入っていった」
そんな中で、日本文化に対しての関心が高まっていった。
「古来、中国にもこういう文化があったけれども今はなくなった。でも日本はちゃんとそのまま残してきたということに強い印象を持って。そのこと自体、ものすごく面白いなと感じるようになりました」

ニーズを聴く力と応える力

バイオブームがおこれば、それに見合った健康食品や化粧品を製造し、自然エネルギーの重要性が国内で話題になれば、太陽光発電にも関わっていく。蘇さんの仕事は、常にそうした時代の流れ、ニーズを察知し、応えていく、その連続だった。
「その中で観光事業、文化交流事業はほぼ永遠のテーマ。戦後からずっと成長している産業は観光産業しかないんです。競争と大量生産の次元では、機械やロボットが人間の代わりをできるけれど、観光の体験を自分の代わりにしてこいというわけにはいかない。高齢化も視野に入れると、大量生産から解放された人間の時間はだいぶありますから」
「日本」というブランド、その潜在能力に蘇さんは将来性を感じている。
「これまでの観光は、美しい景色を見せていたのですが、今はやっぱり文化体験。フランスならフランスの文化、ドイツならドイツの文化。日本は飲食から着物、茶道や禅宗、音楽などすべて強烈な個性を放っている。美術なんかも何百年も前のものが今見てもモダンに感じられる。最近は特に世界的に日本文化ブーム。例えばユニクロとか無印良品とか、日本的なセンスのコンセプトが製品化されて世界的に受け入れられている。ヨーロッパにも最近よく行くのですが、色々な方面で浮世絵や禅の影響が見受けられる。それらは元々は中国の文化を日本で取り入れ国風文化となって発達していったもの。特に平安・鎌倉・室町時代における唐や宋、明時代の文化の影響が顕著です。中国の文化だったものが日本を通してヨーロッパに影響し、さらにヨーロッパが日本を再発見するといったことが起きている。日本がアジアのベースとして機能し、そのような交流があることがすごく面白いなと思うんです」
中国で生まれ、外からの視点を持つ蘇さんだからこそ持つことができた感覚なのだろう。

メディアの活用

「伝統文化は確かに現代人にとって魅力的。ただ、現代の職人、あるいは人間国宝、伝統的技能をもっている方は、保存に一生懸命。でも創造は。茶道や歌舞伎のような伝統文化でも、各時代のニーズにあった作品が出てきて進化してきた。過去の基盤を承継しながら近代のビジュアルやメディアの発達、それに伴う人間の時間感覚や環境など、過去から変化してきた部分に合わせて進化していく必要がある。オリジナルを守りながら、新しい今の時代に合うものが創造されて初めて新しい伝統となる」
外国人観光客が満足できるような、日本の文化を存分に堪能できる旅行をーー。日本の文化ととことん向き合う中で見えてきた課題である。
そしてもう一つ気づいたことがある。
「どの国でも一番文化が発達しているのは異文化との交流が盛んな時代。中国も戦国時代、孔子孟子百家争鳴の時代は国が乱立し、色々衝突しながら、新しいコンセプトや深い思考が生まれた。日本も遣唐使の時代、宋の時代、西洋文明を取り入れた明治維新など融合の時代においては、様々な文化に触れる中で、自分の文化の来し方とアイデンティティを確認できた。融合と交流が、一番いいものを生み出
すのではないかと」
そうして行き着いた答えが映像祭の開催であった。
「今はメディアの時代、みんなパネルの時代、スクリーンの時代になっているんですね。文字より画像、視覚が一番伝わる。最終的に皆さんに紹介するのに一番分かりやすくて広めやすいのが画像なんです。人間は視覚の動物ですから。メディア技術と機器の進化により色んな形で個人が作品を作れる、携帯電話でも映画が撮れるような時代になっている。何か宣伝したいならCM やストーリーを制作したり、画像にまとめて発信したりする方が手っ取り早く効果的。
映像の世界にすごく興味を持つようになったんです」
蘇さんは、すぐさま行動に移した。
「今の時代は変化が早いから、決断と行動を早くしないと。するかしないか。相談を待つ間に、状況も変わってしまう。今なら、必要ですという。決断を早く下して出来る範囲の能力で、まずは独断でスタートを切るのが今の主流。アイディア自体は社会的に受け入れられるような方向に持っていき、後々利益などをシェアするような体制を作る」

映画祭にかける思い

今回の映像祭は、映像を学ぶ学生たちにとっても大きなチャンスとなる。
「映像祭では、若者を応援するというのを一番のテーマにしています。昨今では、学生の交流の場、発表の場を創って二〇〇~三〇〇の作品をいろんな国へ紹介する機会が中々ない。ほかの国もやっていない。今回の映像祭を通して日中、アジア、そして世界の映像のプロフェッショナル、映像の好きな若者に、発表できるチャンス、交流のチャンス、世界中の人々に認められるチャンス、お互いが勉強できるチャンスを作りたい。
若い人たちが我々の未来ですから、若者を支えていく場をしっかりと構築していきたいと考えています」

貿易から始まった彼の仕事は、時代のニーズとともに日々着実に成長し、世の中に希望の種をまき続けている。

vol24

 蘇 慶 SU QING 鳴鳳堂国際青年映像祭実行委員長 株式会社鳴鳳堂 代表取締役 一九八九年 中国中山大学外国語学部 日本語専攻卒業。その後、公務員として沖縄に派遣され、貿易会社で通訳と営業を手がける。 一九九七年に独立、北九州にて貿易会社(日本広信株式会社)を設立。 経営するうちに、物流から人や文化の交流(観光業)へと広がり、建築業や製造業、飲食業などを手がけるようになる。 来日する外国人観光客の目線から、ニーズにあう観光スポットの創設など、観光客の受け入れ体制を整備していく中で、日本の伝統文化や、外国の文化との共通点などに深い興味を抱くようになる。 観光事業、文化交流事業をライフワークと捉え、その核となる会社として、ニ〇一三年に株式会社鳴鳳堂設立。 「本来、伝統文化は、過去をべ―スにしながら各時代のニーズに合わせて進化してきたもの。オリジナルを守りながら、新しい今の時代に合うものが創造されて初めて新しい伝統となる。」という考えのもと、阿蘇にある鳴鳳堂を中核にし、日本の伝統文化やそれに影響を与えた中国文化を紹介し、文化体験の中で人生を磨き、新しい文化や産業創造に結びつけるべく、文化を活用した交流および活性化事業に取り組んでいる

 二〇一九年には、熊本県阿蘇市にある鳴鳳堂を武家文化博物館としてオープン予定、KISS福岡和食広場は和食博物館としてリニューアルオープン予定。 平成三〇年一一月六日、福岡にて北京電影学院と株式会社鳴鳳堂共同主催による日中の若手映像制作振興と交流を目的とした「鳴鳳堂国際青年映像祭」が開催される。映像に携わる若者が、相互に切磋琢磨し、広く深く交流出来る場を提供し、且つ国際的な映像制作者の交流と成長の場として活用出来るよう企画された。世界各国の青年映像制作者とメディアが本映像祭に集結することにより、次世代の映像文化の担い手育成と業界全体のレベルアップに繋がることを目的としている。実行委員長を務める蘇慶さんに、お話を伺った。彼がどんな思いで日本に生き、そしてなぜ映像祭開催に向かったのかが見えてきた。

 日本との出会い
蘇さんは中華人民共和国広西チワン族自治区に位置する桂林市で生まれ育った。世界的な観光地である。絵のように美しい風景に恵まれた、水墨のような世界である。 そんな中国生まれ中国育ちの蘇さんと日本とのつながりはどのようにして生まれたのか。 その始まりは大学時代にあった。 「広州にある中山大学日本語学科で日本文学を専攻しました。中国の大学試験は理系と文系に分かれる。文系の中に外国語専門というのがあり、当時は海外に行きたいというのがあって…偶然は偶然です。」 そんな偶然の始まりが、その後の縁を結んだ。 「大学を卒業して2年間仕事をして、一九九一年に仕事で来日したんです。派遣されたんですね、公務員として。来日先は沖縄でした。当時はまだ台湾と直接貿易できないため、沖縄のフリーゾーンで、日中合弁の貿易会社でタックスフリーの三角貿易をすることになったんです。通訳と営業という形で2年くらい那覇におりました。」 任期が終わり、中国へ帰郷し、貿易関係の仕事を数年つづけた。日本の中古の電化製品やバイクなどを輸入して、中国やベトナムなどのアジアを相手に販売していた。 その後独立し、再び日本での仕事を始める。当時の中国では、海外に出て仕事をするという風潮があり、蘇さんはゆかりのある日本を選んだ。そして、それまでの能力を活かし、中古家電、バイクなどを日本から輸出する貿易業を始めた。

 仕事の発展
その後建設業、農業用の肥料、健康食品、化粧品などの製造業にも進出を果たし、事業を着々と発展させていった。さらに、観光業にも着手。 「日中間のやり取りは、従来は物流でしたけど、7年前から中国の観光客が大量に日本に来るようになっていたんですね。その時日本も『観光立国』を打ち出すなど、国の政策の転換もありまして。自然な流れで観光事業に入っていって。」 観光と言えば、大体の人は免税店、旅行社、車の手配、ホテルのブッキングなどが真っ先に思いつく。もちろんそれらはとても大切なことではあるが、それだけで終わってしまっては意味がない。 「やはりそのあとには安定的な観光スポットがないといけないと思いまして。日本は外国の団体の受け入れの体制、基盤整備というかインフラがちょっと足りないんですね。例えば沢山の車が停められるレストランとか、外国人観光客に和食をちゃんと紹介できる施設とか、あるいは歴史を分かりやすく紹介している観光スポットとか」 蘇さんは建築のキャリアを活かし、国人団体客を受け入れられる施設を開発した。そこで完成したのが「KISS福岡」である。 レストラン、ショッピングコーナー、そして日本の文化を体験できる、外国人観光客向けの施設である。 二〇一六年七月二七日にオープンし、九月時点で既に来場客が五万人を超すという盛況ぶり。 バスは多い時で一六〇から一八〇台は入るという。地元の食材を使ったラーメンは一日約三〇〇〇杯売れる。 「今日本の街中のレストランは大体五〇席が大きいほうです。最大でも二〇〇席。 そういった場所に観光客がバスで一度に入っていいかどうかというと、地元への影響、衝撃があって難しい。さらにイメージが壊れるとか、色々と問題がある。みんな折角日本に来ているのに行き場がないんです。それなら、海外からの観光客が満足するような観光施設を作っていこうと。訪日客の九〇%が、日本の文化、飲食、ライフスタイル…着物や茶道、歴史など伝統文化にすごく興味を持っている。彼らに文化について説明する必要に迫られて、専門の方に教えていただいたりしながら勉強して、だんだん日本文化の中に入っていった」 そんな中で、日本文化に対しての関心が高まっていった。 「古来、中国にもこういう文化があったけれども今はなくなった。でも日本はちゃんとそのまま残してきたということに強い印象を持って。そのこと自体、ものすごく面白いなと感じるようになりました」

 ニーズを聴く力と応える力
バイオブームがおこれば、それに見合った健康食品や化粧品を製造し、自然エネルギーの重要性が国内で話題になれば、太陽光発電にも関わっていく。蘇さんの仕事は、常にそうした時代の流れ、ニーズを察知し、応えていく、その連続だった。 「その中で観光事業、文化交流事業はほぼ永遠のテーマ。戦後からずっと成長している産業は観光産業しかないんです。競争と大量生産の次元では、機械やロボットが人間の代わりをできるけれど、観光の体験を自分の代わりにしてこいというわけにはいかない。高齢化も視野に入れると、大量生産から解放された人間の時間はだいぶありますから」 「日本」というブランド、その潜在能力に蘇さんは将来性を感じている。 「これまでの観光は、美しい景色を見せていたのですが、今はやっぱり文化体験。フランスならフランスの文化、ドイツならドイツの文化。日本は飲食から着物、茶道や禅宗、音楽などすべて強烈な個性を放っている。美術なんかも何百年も前のものが今見てもモダンに感じられる。最近は特に世界的に日本文化ブーム。例えばユニクロとか無印良品とか、日本的なセンスのコンセプトが製品化されて世界的に受け入れられている。ヨーロッパにも最近よく行くのですが、色々な方面で浮世絵や禅の影響が見受けられる。それらは元々は中国の文化を日本で取り入れ国風文化となって発達していったもの。特に平安・鎌倉・室町時代における唐や宋、明時代の文化の影響が顕著です。中国の文化だったものが日本を通してヨーロッパに影響し、さらにヨーロッパが日本を再発見するといったことが起きている。日本がアジアのベースとして機能し、そのような交流があることがすごく面白いなと思うんです」 中国で生まれ、外からの視点を持つ蘇さんだからこそ持つことができた感覚なのだろう。

 メディアの活用
「伝統文化は確かに現代人にとって魅力的。ただ、現代の職人、あるいは人間国宝、伝統的技能をもっている方は、保存に一生懸命。でも創造は‥。茶道や歌舞伎のような伝統文化でも、各時代のニーズにあった作品が出てきて進化してきた。過去の基盤を承継しながら近代のビジュアルやメディアの発達、それに伴う人間の時間感覚や環境など、過去から変化してきた部分に合わせて進化していく必要がある。オリジナルを守りながら、新しい今の時代に合うものが創造されて初めて新しい伝統となる」 外国人観光客が満足できるような、日本の文化を存分に堪能できる旅行をーー。日本の文化ととことん向き合う中で見えてきた課題である。 そしてもう一つ気づいたことがある。 「どの国でも一番文化が発達しているのは異文化との交流が盛んな時代。中国も戦国時代、孔子孟子百家争鳴の時代は国が乱立し、色々衝突しながら、新しいコンセプトや深い思考が生まれた。日本も遣唐使の時代、宋の時代、西洋文明を取り入れた明治維新など融合の時代においては、様々な文化に触れる中で、自分の文化の来し方とアイデンティティを確認できた。融合と交流が、一番いいものを生み出 すのではないかと」 そうして行き着いた答えが映像祭の開催であった。 「今はメディアの時代、みんなパネルの時代、スクリーンの時代になっているんですね。文字より画像、視覚が一番伝わる。最終的に皆さんに紹介するのに一番分かりやすくて広めやすいのが画像なんです。人間は視覚の動物ですから。メディア技術と機器の進化により色んな形で個人が作品を作れる、携帯電話でも映画が撮れるような時代になっている。何か宣伝したいならCM やストーリーを制作したり、画像にまとめて発信したりする方が手っ取り早く効果的。映像の世界にすごく興味を持つようになったんです」 蘇さんは、すぐさま行動に移した。 「今の時代は変化が早いから、決断と行動を早くしないと。するかしないか。相談を待つ間に、状況も変わってしまう。今なら、必要ですという。決断を早く下して出来る範囲の能力で、まずは独断でスタートを切るのが今の主流。アイディア自体は社会的に受け入れられるような方向に持っていき、後々利益などをシェアするような体制を作る」

 映画祭にかける思い
今回の映像祭は、映像を学ぶ学生たちにとっても大きなチャンスとなる。 「映像祭では、若者を応援するというのを一番のテーマにしています。昨今では、学生の交流の場、発表の場を創って二〇〇~三〇〇の作品をいろんな国へ紹介する機会が中々ない。ほかの国もやっていない。今回の映像祭を通して日中、アジア、そして世界の映像のプロフェッショナル、映像の好きな若者に、発表できるチャンス、交流のチャンス、世界中の人々に認められるチャンス、お互いが勉強できるチャンスを作りたい。若い人たちが我々の未来ですから、若者を支えていく場をしっかりと構築していきたいと考えています」 貿易から始まった彼の仕事は、時代のニーズとともに日々着実に成長し、世の中に希望の種をまき続けている。